自学自習はもともと公文式の創始者、公文公(くもん とおる)が公文式の目指すところとして掲げたものです。
これを聞いて、どのようなイメージを持ちますか?
私は自学自習という単語を聞いて、
「自分から勉強するなんてありえない」
「自ら勉強してくれるなんてそんな楽なことはない」
という両極端な意見を持ちました。
今思えば、子の意見(勉強する側)と親の意見(勉強させる側)の両方の感想を同時に思い浮かべたのでしょう。
私は大学の卒業試験までろくに勉強したことがありませんでした。
ましてや幼少期なんてずっと家でゴロゴロしていましたし、
小学校に上がってからようやく
ひらがなを覚えたような教育環境でした。
そんな私ですが主人と出会い、
公文式の言う「自学自習」に改良を加えて、
バージョンアップさせた「自学自習」を子どもたちに身につけてもらうことにしました。
そもそも自学自習とはなんでしょうか?
バージョンアップした自学自習とは?
[quads id=1]
そもそも自学自習とは何か?
三省堂 大辞林にはこのように載っています。
( 名 ) スル
先生に指導されるのではなく、自分で学習すること。独学。
そうです。
すごくざっくり言うと、独学のことです。
主人の解釈としてはそれに、
「変化対応力を基準にした、学ぶ力そのもの」
を追加しました。
変化がなければ、
「受験勉強→良い大学→良い就職」
が最適解でしたが、
もうそんな時代ではありません。
それを私なりに解釈して、「自分で学習することを探し、決める」を追加し、『自学自習』としました。
( 公文式は「自分で探し、決める」のプロセスはないのですが、基礎教育なのでそれでいいのです)
自分で学ぶことを探す
自分で学ぶことを決める
自分で学ぶことの資料(本、文献など)を集める
自分で学ぶ
勉強とは限らない
趣味を突き詰めるのも含む
学校は自学自習からもっともかけ離れたシステム
通常、子供は学校へ行きます。義務教育ですね。
その学校と自学自習を比べて見ましょう。
・文科省が何年生にこれをやると決めたこと(古いらしいですね)を学ぶ。
・教え方は教師の裁量に任されるが、 時間的にも労力的にも制限があるのであまり自由がない。
・ 1対多という講義形式で一方的に伝える。
・ 資料は教科書。
(片方の側面からしか見ていない内容も散見されるようです)
・授業は学ぶというか、 ノートをとる時間。理解する、記憶する。
・ 結果はテストで見る。
(理解していなくても答えがあっていればマル。デスクワーク耐性を持ってるかどうかで有利不利が決まる)
皆さんは十分理解されていると思いますが、「教えるという役割」は大変で崇高なものです。
ちょっと今の教師像がダメで、これからもダメというだけです。
英語の授業が入ってくるみたいなので、ダメなのが加速するでしょう。英語ギライが量産されなければいいですが・・・。
(ネイティブでもない日本人が授業を英語でするんですって。植民地かよ)
ひと昔前まではインターネットもなかったし、アマゾンもなかったので、知識の仕入先は先生でした。
父母や近所のおじさんおばさんと比べて、頭も圧倒的に良く、知識をたくさん持ち合わせていました。
今はどうでしょう。
インターネットがあり、固定Wifiが引ければ動画も見放題です。
カーン アカデミーを代表とする無料の講義動画もあります。各国のニュースも入ってきます。
相対的に学校の先生の価値というものは値崩れを起こしているのが現状です。
学校に子どもの教育は任せられない。だから・・・
ここで大切になってくるのが、 能動的な姿勢です。
受け身の姿勢では、45分、50分の授業で与えられるだけの情報を例え全て覚えたとしてもたかが知れています。
もう講義形式で教わる時代は終わったのです。
自分が興味あるものを突き詰めていき、まとめる。
可能であれば、友人や大人に教える。
教えるという行為は
インプットする→理解する→教える(アウトプットする)
というように、理解の先にあります。
話す内容以外にも深く知り、深く理解していないと語れない、ということです。
ラーニングピラミッド を利用した声かけ
知人に子どもの教育に詳しい先生がいます。
小学1年生の5人に1人がやっているという某有名通信教育講座の教材作りに携わっていた先生なのですが、
お話しする機会があったので、「『子どもとの雑談』でどのようなことを話題にしたらいいでしょう?」と聞いてみました。
そしたら、
「『今日、学校で何を教わってきたの?』と聞いてみましょう。」
という答えが帰ってきました。
過分ですが、うちの長女はインターナショナル小学校に通っています。
「夜、お母さんに『何を教わってきたの?』と聞かれると思うと、
授業をしっかり聞いてくるでしょ?
お母さんは子どもが学校でどんなことをしているか把握できるし、
英語の勉強にもなる。」
確かに近い未来(当日の夜)、
発表の場があると思えば『自分が説明することを前提にした授業態度』になりますね。
『アウトプット前提のインプット』
これは本当に有効なことなのです。
先生の質に左右されない優良教材
いくら学校が頼れないからといって、やはり基本的な学業は全うしてもらわないとお話になりません。
字が読めなければ本も読めませんし、字が書けなければ自分の考えをまとめたり、伝達することができません。
漢字が読めなければ子ども向け絵本しか読めませんし、
パソコンで変換してくれるとはいえ、間違った漢字を採用してしまえば信用は急落です。
・文の構造的理解、読解力。
・基本的な算術(高校生程度まで)。
この辺りは当たり前に身につけて欲しいと思っています。
(個人的にもう一つ足すとしたら、字が上手だといいな、と思っています。)
そこで、わが家が子どもに取り組んでもらっている教材が、「公文式」なのです。
公文式のメリット・デメリットはあちらこちらで言われているので割愛します。
他のサイトで話題にならないけどお伝えしたいメリットがあり、これこそが主人が公文式を勧める理由なのです。
そのメリットとは。
公文式(Kumon)のお伝えしたい たった一つのメリット
教材が良いから。
かなりなスモールステップで、徐々に徐々に難しくなっていきます。
このスモールステップが先生に頼らない学習を可能にしてくれています。
(といっても、つまづいた時には先生の的確なサポートがあった方が効率良く進むことが可能ですが)
どれくらいスモールステップかというと、
毎朝、子どもがプリントをしている横で見ていても気づかず、
「子どもがくもん嫌がる!」と主人に報告した時に状況を説明して、
「そりゃあ、嫌がるよ!」と主人に指摘されてようやくわかるくらいの小さい差異でした。
詳しくはこちらの記事を参照してください。
→★ 公文式はなぜ自学自習ができるのか?解き方を自分で発見するためのスモールステップとは?(足し算編)
・・・とまあ、こんな感じのスモールステップがあって、初めて自習状態での進みが可能になります。
くもんの先生は丸付けをしたり、つまづいたところを『くもんの方針に沿って』アドバイスをしたりします。
他のジャンルの塾だと、教材がそこまで用意されているとは考えにくいので、先生の影響力が強くなってしまいます。
すると、どんな先生につくのか?が重要になってきます。
先生の質が問われます。
先生の人間性
先生への信頼感
子どもがどこまで理解しているかを正しく見極める力
どこがわかっていないかを的確に突けるか
子どものやる気を把握し、やる気を損なうことなく教えられるか
教室や塾の場が適切な空気になっているか
もし外面だけ良い、悪質な先生を師事してしまえば、貴重な幼児期を失うばかりか、悪影響が残る、特定のものが嫌いになることだってあります。
(例えば、数字ギライ、英語ギライ、漢字ギライ。「楽しくないけどやらなくちゃ」という強迫観念。「先生の言うことは絶対」、という思想など)
わが家は決して都市部ではないところに住んでいるので、選ぶほどの人的余裕がありません。
(東京に良い先生は知っていますが、基礎教育向きにするには贅沢すぎるし、毎週通える距離でもありません)
なので、教材がしっかりしていて、先生の影響力が(相対的に)最小限で済む、公文式を選んだのでした。
もちろん公文式のデメリットは承知の上です。
それを補うため、こんなこともしていますので、よかったらご覧ください。
→★ 公文式(くもん)に足りないところをうまくカバーする教材【z会・どんぐり倶楽部】
さいごに
先生や学校、社会情勢に左右されない教育を、となった時に出てきた結論が「自学自習を身につけること」でした。
これからの道筋としては、
基礎教育を進めながら、
何を学ぶか?の判断材料になる様々な経験をさせ、
どんな人生を送るか?のサンプルになる様々な大人に会わせ、
伝記を読み、人生のライブラリーを手に入れ、
古典文学に触れ、
イベントを企画し、プレゼンさせ、お金を集めさせ、
やりたいと表明したことに挑戦させ、
最終的には自分で何を学ぶか?を未来を見据えた上で選択できる大人になってほしいと考えています。
きっとその出た結論は、私たち親にとっては「えっ!それはナイ・・・汗」ことなんでしょうが、それも新しい世代の価値観から生まれ出たもの。
私たち親の最後で最大の仕事は「子どもたちが決めた道筋に小言を言わず送り出すこと」。
早ければあと10年後の未来です。
コメント