子ども3人がずんずん卒業しました。
片付けを機に主人に「プリント多い〜(涙」とグチったら、
「さすがにずんずんは捨てたら?」と言われました。
いつかプリントと背くらべをするつもりで3人分全部とっておきましたが、いいかげん置くところもなくなってきました。
一枚ずつ保管しておいて、ファイリングしようとも思ってましたが、なかなか時間がとれず・・・。
反論意見も浮かばなかったので、「うーん、、、そっかぁ、、、まあ、ずんずんだしな」と納得しました。
そして目の前に置かれた『混ざっているプリント』!
そうなのです。くもんの出だしで算数を選んでも国語を選んでもずんずんはあります。(多分)(学年にもよるかも)
ということは、国語と算数を同時に始めた娘たちのプリントは、国語と算数とずんずんが入り乱れているのでした!
はぁぁぁあああ!思ったよりめんどくさい!!・・・でもやる!!
と、整理をしていた私のところにやってきた次女・によ。
「おかあさん、なにしてるの?」
「プリントの整理をしているの。ずんずんを捨てようと思って」
「ふふっ、ずんずんと英語がまざっていたらやばいよね」
「えっ!?なんのこと??」
なんと、ずんずんと英語はプリントのフチの色が同じなのです!
これは混ざっていたらやばそう・・・。
プリントの仕分けを教科別にした後、再チェックとしてプリントのサイドの色を見るのですが、
英語と混ざってしまうと同じ色なので、そのチェック方法が効かなくなるところでした。
おおぅ・・・。同時に英語をとってなくてよかった・・・。(?)
さて、ずんずんを卒業した娘3人。
不要論がささやかれる「ずんずん」ですが、実際にずんずんをやってみてどうだったか感想をまとめたいと思います。
ずんずん不要論について
公文式のずんずんとは、楽しみながら運筆に慣れるための教材です。自由な線や曲がった線を描くことから、無理なく文字や数字のなぞり書きへ導入していく目的があります。
しかし、国語や算数の教材とは違い、正解がありません。(いや、なくはないのですが)
お絵かきさせればいいじゃん。コピーでいいじゃん。
高い教育費をかける必要はあるの?(ずんずんは算数、国語の導入なので、支払いは1教科分かかります)
確かに落書きに月7000円・・・と思うと高く感じるのも無理ないと思います。
公文式ずんずんについて:ちま母の意見
私は小さい頃、体格が小さくて同級生より2学年ほど遅れて成長していました。
一昔前の片田舎育ちなもので、幼稚園時代には文字を教わらず、字も書かなかったし、鉛筆もろくに持ったことがありませんでした。クレヨンは持ったかな?
よく小学校の先生からは「もっとはっきり書きましょう」と注意されていました。漢字のノートとかですね。
お友だちが目の前で「元気にはっきり書けているから、花マル!!」と褒められたりもしていました。
しかし、私には筋力がない。持久力もない。瞬発力もない。
漢字ノートの宿題なんかも2ページも書けば手首が疲れてしまって、「あー痛い、疲れた」と手首のストレッチをするようなババくさい子どもでした。
当時は誰も疑問に思わなかったのです。体格が小さくて引っ込み思案だから、こんなひょろひょろの自信がない字を書くのだろう。見た目通りだ、と。
そんな私から生まれた子どもは、揃いも揃って小粒揃い。
遺伝子ってすごいな、と人ごとのように感じました。
しかし、私と違うのは、公文式の存在。
3歳から始めた公文式ずんずん。
運筆をたっぷりやったおかげで、やはり2学年遅れた身長体重ですが、しっかりはっきりした字を書きます。
その部分での劣等感がないせいか、のびのびした幼稚園に育ててもらったのがよかったのか、自分に自信を持ち、アウトプットが上手な子どもたちに育ちました。
たらればはないのですが、私も運筆をやっていたら、もっとしっかりした字が書けて、漢字の宿題をしても手があそこまでダメージを負わなかったのかな?と思ってしまいます。
今の日本において、勉強をせずに豊かで自分の時間を自分のために使える大人になることは難しいです。
小さい頃から、何かを書く経験、それに伴う運筆力は今後も必要になると思います。
とはいえ、これからはパソコンの時代。手で書くのは時代遅れなのでは?という意見もありますね。
それについては私の師匠が「効率よく記憶するには手で書くこともできたほうが良い。これからも手で書くことは必要だろう」という意見を述べていて、それに納得したので、今後も運筆力は必要になると思います。
もう一つの意見。
教育費として月7000円は高いという意見について反論です。
通常、ずんずんは国語や算数の導入としてやるものなので、国語の序盤や算数の序盤と同時並行でやります。なので、ずんずんだけで7000円というわけではないです。
3歳くらいの子どもの国語、算数は、まだあまり難しい内容がさせられないので、超簡単で短時間で終わるものになります。
多分、ずんずんがないと5分10分で学習時間が終わってしまうでしょう。
(だらだらやれば時間がのばせるのはどの年代でも一緒)
ある程度、まとまった時間やったほうが「こんなにできた!」と褒めやすいです。
座って取り組める経験にもなります。
さらに、こちらの答案たちをご覧ください。
あなたはこれらに100点がつけられますか??
私はこの答案で100点をつけられるのはお金をもらった他人だけだと思っています。
少なくとも私には無理・・・!!
「そこ、はみ出ている」
「あー、ちょっと届いていないね」
「関係ないこと書かないの」
「色ペンを使うな!」
などなど。
実は実際言ったこともありますが・・・。
くもんの先生にかかるとこうはならないのですね。
やはり色々な子どもを見てきて、経験的に先がわかる人にしてみたら、トンデモないずんずんだって、成長に見えるのです。
だいたいの親御さんは初めての子だったり、多くても3人4人というところでしょう。
よほど教育の経験や知識がある親御さんでも、自分の子を目の前にしたら厳しすぎたり甘すぎたりしてしまうはずです。
身近で冷静な第三者は大切だと思うわけです。
ちなみに・・・
「そこ、はみ出ている」→元気な線が描けたね!
「あー、ちょっと届いていないね」→上手に描けたね!アリさんまで書けるともっといいね!
「関係ないこと書かないの」→何を書いたのかな?先生に教えて
「色ペンを使うな!」→たくさん描けてがんばったね!
となります。
くもんの先生に言われた言葉は「今は元気に書ければいいですよ。机に向かったことをほめてあげてください」でした。
線を描けって言われているのに、鉛筆で書くべきだろうに、
クレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたプリントだって、花マル100点です。
私が想像する幼児教育とはずいぶん違いました。やる気を保つ、楽しいと思うことが大切なのだそう。
理想はそうかもしれないけど、実現するのは難しいだろうことを体現している先生方スゲェと思うのでした。
じゃあ、手放しで褒めてればいいかと言うと・・・。
もちろん、ほめるだけ放置ではいけません。
徐々にプリントに修正が入っていきます。
元気な線→始点から終点まで線をつなげる→途中経過のマーク(ポコちゃん)を通る→始点から終点までルートからはみ出さずに線を書く→終点でぴたっと止める
というようにマルの基準が上がっていきます。
画材(という言い方は適切ではないが)も小学校入学が近づくと「小学校では鉛筆だからね。そろそろ鉛筆にしていきましょう」と修正が入ります。
きちっとルート通りの直線、曲線が書け、止めたいところで止める。
これは文字を書く下地になるのです。
さて主人はずんずんをどう思ったでしょうか?
公文式ずんずんについて:主人の意見
ずんずんは必要か不要か?というのは内容の話?
内容は関係ない。公文式は自学自習の習慣づけのためにやっていること。
3歳などの幼少期から始めることで、友だちと比べることなく、すんなりと学習習慣が身につく。
ずんずんは言わば、「プリント学習の訓練」だね。
特にうちの次女はずんずんからやっていて良かったパターンだね。
ある程度大きくなってくれば、この子には必要だった、不要だったなどわかるが、
3歳の段階では必要不必要がわからないんだ。
例えば、おれは小3から公文式を始めたから、ずんずんはしなかったし、小3からでも学習習慣が身についた。
だからと言って、次女も小3からでも大丈夫というのは楽観的すぎる。
ちま「たしかに」
どちらかわからない時は、悪い方を想定する。この場合なら、「ずんずんしなくても学習習慣が身につくだろう」というのは楽観的。
そうでなくて「学習習慣が身につかないかもしれないから、ずんずんから習慣をつけていこう」と想定するわけ。
ちま「そういえば、次女のずんずんプリントのなまえの欄に「++++++」って書いてあったんだよ」
「次女が最近になってそれ見て、『なまえをかいたつもりが、字になってなくてビックリした』と言っていたよ。」
そうなんだw子どものその時感じたことがわかるなんて貴重だね。
だからずんずんは大切なんだ。
ずんずん期の作品集
ずんずんは国語算数の導入として学習します。ということは、同時進行ということ。
同じ時期の国語算数のプリントを公開します。特にはっちゃけたやつ。
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